業とはなにか考える。
やむにやまれぬ事情から娼婦となった4人の女性を描くチベットのシスターフッド小説『花と夢』を読み終えて、しばらく考え込んだ。
花の名前を源氏名にした彼女たちはナイトクラブ「ばら」で働きながら、小さなアパートで共同生活を送る。
それぞれ支え合いながら生きる彼女たちは、たびたび理不尽な不幸に見舞われる。
そのたびに彼女たちは、理由を「業の深さのせい」だと発言する。
主人公のヤンゾムは娼婦になる前は、家政婦として役人の家で働いていたが、ある日、盗みの疑いをかけられ家を追い出されることになる。
住む家がなくなったヤンゾムは、「ばら」で働く同郷のドルカルを頼る形で、身を寄せていた。
しばらく職を探していたがなかなかみつからないヤンゾムは「ばら」に出入りするようになる。
男性客に酒を無理やり飲まされたヤンゾムは、その後、ホテルに連れ込まれ性暴力を受ける。
「ねえ、アチャ、アチャは後悔なんてしなくていいからね。これはあたしの業が深いせいなの。嘆いたってどうにもならない。山の高みから自分の運命が見えるなら、過ちなど犯すことはないって言うけど、ほんとその通りだね。こんな災難に遭うなんて予想もできなかったんだから。アチャも苦しまないで。あたしの福徳が足りないだけだから。あたしの福徳が足りないせいで、あの夜、純潔を失ったの。こんな人生うんざりだけど、この先も生きていかなきゃならないし、何とか食べて行かなきゃならないんだから選択肢はないよね。両親からもらった体を守れなかったあの日、あたしの心は死んだの。今あたしに残されているのはこの体だけ。だからあたしもアチャたちと一緒に《ばら》で働くことにする。ねえ、アチャから老板にあたしを入れてくれるよう頼んでくれない? だってもう白い布に黒い染みがついちゃったんだから、守るものなんてないじゃない」
責任を感じたドルカルに対し、ヤンゾムは「業の深いせい」だと言い、「ばら」で働くことを告げる。
断罪されるべきは性暴力の加害者ある男性であることは、現代の日本で暮らす私たちにとって疑うまでもない。
しかし、チベットの娼婦である彼女たちにとっては「業の深さのせい」なのだ。
訳者解説によれば、これはチベットの人びとの大半が信奉する仏教にもとづく輪廻転生と業報思想にもとづくものであるらしい。
今の自分の肉体に宿る意識は、前世において別の生命に宿っていたものと認識し、その生命体による善悪さまざまな行為が原因となって今の自分の身に起こるできごとが引き起こされていると考えると。
思想としてそのような感覚があることはわからなくはないが、現実的な問題として考えた時にどうにも割り切れないように思える。
物語は終盤、悲劇的な方向に進んでいく。
悲劇のあとヤンゾムはラサ三大寺のひとつセラ寺を参拝する。
そこでの美しい描写や、ラストのシーンで見かけた巡礼者たちの姿から感じられる希望もまた仏教的な思想にもとづいたものであることを思うと、深い感慨にふけってしまう。