広島ブックフェスの会場へ向かうために、久しぶりにアストラムラインに乗った。
通勤ラッシュ後の車内は空いていて、シートに座ると車内広告が目に入った。
旧型車両6000系が今年の5月で引退するらしい。
2019年に新型車両7000系が導入され、この5年で順次新型に切り替わっていて、その入替えが完了ということのようだ。
旧型車両は5月をもってすべての運行が終わるそう。
特設サイトをながめているうちに、アストラムラインに乗っていた日々のことが思い起こされた。
2008年春、新卒入社した会社で私の配属は広島支店だった。
アストラムラインの沿線に住むことになった私は、アストラムラインで通勤した。
私の広島生活はアストラムラインと共にスタートしたのだった。
ぽつりぽつりと断片的に思い出す、アストラムラインにまつわる記憶について、何か文章に残して置こうと思った時に、ひとつのブログ記事を思い出した。
私の個人的なブログだ。
それはサンフレッチェ広島について書いたものだったけど、よくよく読むとずっとアストラムラインの話をしていることに気がついた。
アストラムラインへの思いも詰まっていると感じたこの記事を転載する。
改めて何かしたためるよりも、その方がいいような気がしたから。
尚、この記事はかくたす編集室、蓮見紗穂氏に編集としてご尽力いただいたものであり、それも含めて良き思い出となっている。
2008 / 2022年のサンフレッチェ男
「オー サンフレッチェー 紫の男
今日もこの街を
熱くするのは おーまーえー」
2008年、サンフレッチェ男は静かに試合を見つめていた。
紫色の思いで、ただ静かに見つめていた。
そして今、2022年のサンフレッチェ男もまた同じように試合を見つめている。
あれから僕は歳を重ねた。
その間に結婚もしたし、子どもが三人生まれた。
脂ぎっていると思っていた頬にあぶらとり紙をあててみても、変化はない。
吸い取るべき油分などないのだ。
必要なのはあぶらとり紙ではなく化粧水だ。
しかしスタジアムの中のサンフレッチェ男は歳を取らない。
23歳のままサッカーの試合を見つめている。
2022年5月の良く晴れた休日、9歳になる息子とサッカー観戦に行った。
サンフレッチェ広島の創立30周年を記念した、メモリアルな一戦だ。
息子はプロサッカーの試合を生で観るのは初めてだったし、僕にしてもずいぶんと久しぶりのことだった。
この日を楽しみにしていた僕は、前日の夜うまく寝付けず、少しだけ寝坊した。
スタジアムへは電車で行くことにした。
アストラムライン。
広島市中心部の「本通駅」から、サンフレッチェ広島のホームスタジアムがある「広域公園前駅」までを走る新交通システムだ。
自宅から最寄りのN駅まで、30分ほどの道のりを二人でのんびり歩いた。
息子は楽しそうだった。
ホームで電車を待っている間も、電車に関する蘊蓄や妄想をあれこれと聞かせてくれた。
電車に乗るのが好きな彼にとっては、サッカーを観られることより、アストラムラインに乗れることの方がうれしかったのかもしれない。
広域公園前行きの電車が来た。
車内には、同じようにスタジアムへ向かう人が大勢乗っていた。
一つだけ空いていた席に息子を座らせ、僕はその前でつり革につかまった。
電車が発車して、次の駅を過ぎ、大きなカーブに差し掛かった。
少し揺れたタイミングで車両の後方に何気なく視線を移した。
そのとき不意に、既視感のような、幽体離脱のような、そのどちらでもない、あるいはそのどちらともいえそうな不思議な感覚に襲われた。
一番端の席に座っている一人の男が目に入った。
それは、僕だった。
疲れた表情をした新入社員の僕だった。
2008年、大学を卒業し就職した。
一カ月間の東京での研修を終え、僕が配属されたのは広島支店だった。
慣れない仕事に、縁もゆかりもない初めての土地。
最初の二、三カ月はなんとかやり過ごせた。
夏のイレギュラーな人事異動で、直属の上司が変わった。
そこからが地獄だった。
毎日のように詰められ、時には暴言を浴び、打たれ強いと思っていた僕の精神は穴が開くほどにボコボコになった。
新入社員あるあるといえばそれだけのことかもしれないが、なかなか堪えるものがあった。
これも社会の厳しさだと自分に言い聞かせることが、弱った僕にできる精一杯のことだった。
そして仕事が嫌になった。
当時、僕はN駅にほど近いマンションで暮らし、アストラムラインで本通駅まで通勤していた。
夏がもう終わろうかとしていたある朝、いつもと同じようにN駅まで歩いて、改札を抜けホームへのエスカレーターを上った。
電車の到着まで5分ほどあった。
待っている間に、反対方向の広域公園前行きの電車が先に来た。
なぜそう思ったのか、今となってはもうわからないが、僕はその電車に乗ろうと思った。
いや、思う前に乗っていたという方が正確かもしれない。
いつもと違い、反対向きの電車は空いていて、僕は車両の後ろ、一番端の席に座った。
そして目を閉じ静かに電車に揺られた。
20分ほどで終点の広域公園前駅に着いた。
アストラムラインの路線はちょうど「?」のような形状になっていて、始点の本通駅と終点の広域公園前駅(あるいは逆かもしれない)を、いくつもの電車が折り返し運行している。
終点の広域公園前からそのまま折り返し、本通駅に向かえば、始業時刻に間に合ったかもしれない。
しかし僕は電車を降りた。
テレビドラマであれば、このまま会社をさぼって海へ行くところだろう。
どこか遠くの海から会社に電話をかける。
辞意を伝えて、それっきり。
次の人生を歩みだす。
現実の僕はそうはできなかった。
改札を出たところで、会社に連絡を入れた。
体調不良で休みますと言うのがやっとだった。
会社を休むことで気が楽になった僕は、サンフレッチェ広島のホームスタジアムへ行ってみることにした。
駅からスタジアムへは歩いて10分ほどで、上り坂になっている。
試合がある日は、この坂道をぞろぞろと観客が歩いているのだろうと想像しながら向かった。
スタジアムに着いた頃には少し汗ばんでいたので、自販機で三ツ矢サイダーを買って飲んだ。
三ツ矢サイダーも、サンフレッチェ(三本の矢)なんだなあと思った。
しばらく周辺をぷらぷらして、家に帰ることにした。
翌日はいつものように出社した。
その日を境に変わったことがある。
時々、普段より一時間くらい早く家を出て、会社とは反対方向の電車に乗り、広域公園前で折り返して通勤するようになった。
今思うと、出社することへの抵抗だったのだろう。
あまり意味があるとは思えなかったが、そんな日がしばらく続いた。
会社をさぼってスタジアムへ行った日から何週間かあとに、サンフレッチェの試合を観に行ってみた。
季節は秋になろうとしていた。
土曜日の昼、一人でアストラムラインに乗って、一人で観戦した。
試合の結果は忘れてしまった。
ただ静かに雨が降っていて、寒かったことをよく憶えている。
応援グッズのタオルを買って帰った。
それから数年で、何度かの転勤と何度かの転職を経験した。
その間に僕は結婚して、子どもが生まれ、家族が増えた。
そしてまた、この土地で暮らしている。
2022年の5月に話を戻そう。
エディオンスタジアム。
雲の影さえ一つもない快晴だった。
空の青と、グラウンドの緑とのコントラストが美しく映えていた。
息子はオレンジジュースを飲み、僕はビールを飲みながら試合が始まるのを待った。
14:00。
30周年を祝うセレモニーが終わり、キックオフ。
感染症拡大防止の観点から、声を出しての応援は禁止されていて、観客はみな配布されたハリセンをバチバチ叩きながら観戦していた。
静かな立ち上がりから、サンフレッチェに最初のチャンスが訪れた。
前半13分。
フリーキックからのこぼれ球をジュニオール・サントスが拾った。
相手のディフェンスに囲まれながらも、倒れないようにバランスをうまくとりながら身体を回転させ、左足で放ったシュートがゴールに吸い込まれた。
スタジアムのボルテージが一気に上がった。
観客はみな立ち上がり、喜びを全身で表現していた。
この時ばかりは声を上げずにはいられないと湧いた。
息子も楽しそうにハリセンを叩いている。
その時なぜか、僕の周りだけ時間が止まっているように感じた。
僕が見たのはサントスのゴールであり、14年前の僕だった。
サントスのシュートは、あの頃からずっとどこかで固まっていた何か、形而上学的な何かを打ち砕いてくれたような気がした。
その形而上学的な何かは、心の奥底の方からじんわりと静かに溢れ出てくるようだった。
気がつくと僕は泣いていた。
帰りの電車の中は、観戦帰りの人たちばかりだった。
サンフレッチェは試合に負けてしまったが、みな晴れやかな顔をしているように見えた。
明日からまた普通の日常がやってくる。
アストラムラインは今日も、本通駅と広域公園前駅の間を行ったり来たりしている。
時には誰かの悲しみを乗せて、時には誰かの喜びを乗せて。
一番端の席に、サンフレッチェ男はもういなかった。